【基本情報】
名前:82chisa
性別:女性
年代:40代
職業:フリーランスライター、編集者
家族:夫と長男、長女
出身:東京都港区
現在地:東北地方の田舎
はじめまして!82chisaです。
私は東京都港区で生まれ育ち、私立の中高一貫女子校を出て、いわゆるMARCHの一角の大学に通い、新卒で出版社に入社しましたが、その会社を29歳でやめて、夫の故郷である東北の田舎町に移り住みました。
今はフリーランスとして、ライターや編集の仕事をしています。
移住した当初、
よくこんなところに来たね
とさんざん言われましたが、移住して10年以上、とても幸せに暮らしています。
東日本大震災の経験
2011年に起きた東日本大震災については、みなさんご存知だと思います。
私は2008年の夏に東北に移住し、震災が起きたのは3年目の春でした。
内陸部に住んでいたので津波の被害には遭いませんでしたが、まだ寒い東北の3月に電気、ガス、水道が止まり、当時0歳だった娘にミルクや離乳食を与えることができない状況を経験しました。
それでも内陸部の人は「私たちの被害はたいしたことない。」とみんなが口にするくらい、沿岸部の状況は酷いものでした。
東北の沿岸部はなんと500km以上にわたって巨大津波に襲われ、岩手、宮城、福島の多くの地域で、決して大げさではなく「街が無くなった」と言えるような状況になってしまいました。
夫の仕事の関係で沿岸部にお友達もいて、無事ではあったのですが、当時しばらく連絡がつかずに本当に心配しました。その人はお店も自宅も流されて何も無くなっても「うちはみんな無事だったから大丈夫」と言うくらい、たくさんの方が亡くなりました。
その後、私は、たまたまのご縁で被災地支援事業のスタッフになりました。
最初は沿岸部の人たちを「助けるべき人たち」だと思っていました。
でも実際に行ってみたら、元気をもらったのは私の方でした。
沿岸部の人たちは、街も家も仕事も無くなっても、毎日、自分にできることを一つ一つやって、前に進んでいました。当時、ボランティアや支援活動で現地に入り「自分の方が元気をもらった」「被災地の人に教えられた」と語る人は多いです。
あまり簡単に語りたくはありませんが、その力強さの一つの理由は、海に命を与えられて生きてきたことも、海の過酷さも、両方知っているからだと私は思っています。
自分たちは海に生かされてきた。だから、これからもここで生きていく。
その姿には、効率がいいとか悪いとか、自分に有利とか不利とか、そういう理屈を超えた生きる力を感じました。
私には故郷がない
私は13歳まで東京・港区の乃木坂で育ちました。
そうです、「乃木坂46」の乃木坂です。
お嬢様だったわけではなく、父親の社宅が乃木坂にあったのです。
父は、インフラ系の国営企業(当時)に勤めていました。
まだ六本木ヒルズも東京ミッドタウンも無く、TBSも今のビルではなく古い社屋でしたが、日曜日は銀座のデパートに出かけ、ランドセルを背負って表参道の児童館に通ったり、友だちと東京タワーのゲームセンターに遊びに行ったりする子ども時代でした。
しかし、時代は変わります。
父の会社が民営化され、社宅の土地は売られることになりました。
我が家は都心の一等地から、当時バンバン開発されていた多摩ニュータウンへ引っ越すことになりました。
子ども時代に親の仕事の都合で引っ越すのは珍しくない話かもしれませんが、13歳まで育った場所は子どもにとって原風景です。
当時、ミッドタウンの足元には鬱蒼とした森のある公園があり、そこで写生大会をしたり、池でザリガニを釣ったりしました。
社宅は古いアパートで、年に1度、住人みんなで落ち葉掃除をする日があり、集めた落ち葉で焚き火をして焼き芋を作ったりしていました。
お祭りの時は1000円札を握りしめて神社へ行き、縁日で遊んだ後は盆踊りに参加してお菓子をもらい、友達と銭湯に行きました。
東北の人に話すと「同じだね」と言われます。
でも、そこは東京の一等地。
そんなセピア色の思い出は初めから存在しなかったかのように、風景は変わってしまいました。
当時の友達も、もうほとんど誰も、そこには居ません。
私は、新しく移り住んだ多摩ニュータウンの人工的な快適さに馴染めず、私立中学校に通っていたために実家の周囲には友達もできませんでした。お祭りも銭湯も無いし「綺麗なだけでつまらない街だな」と思っていました。
なので実家がある街は、今もただ「実家があるだけ」の街で、懐かしさはありません。
「故郷」がある人が羨ましかったし、莫大なお金を持っている一握りの人が好きなように開発した街より、一人ひとりが一生懸命生きた結果が現れている街の方が素敵だな、と思うようになりました。
暮らす街を愛せるように
だから夫の仕事の都合で東北に引っ越すことになった時、私はワクワクしたのです。
私が住んでいるところは、山が美しくて空が大きいです。季節ごとの食べ物がとても美味しくて、自然の営みがダイレクトに感じられます。こういうところで生きることは、かつての日本では当たり前だったと思いますが、今はとても贅沢なことだと思います。
そういうところで、みんなで協力し合いながら暮らしを営んできた、その足あとがちゃんと、東北の街には現れています。
その上で、日本のインフラ整備はすごいので、かなりの田舎でも、ちゃんと道路が通っているし、スーパーやコンビニ、ドラッグストアもたくさんあるし、amazonから商品が届きます。
それでも田舎に暮らす人たちは
「ここには何も無い」
と言います。
そこを私は、歯痒く思います。
沿岸部だけじゃなく、山側も、平地も、川沿いも、自然の厳しさに振り回される部分もあるけれど、だからこその豊かさを、田舎に暮らしている人は知っています。
でもなんとなく、堂々とできません。
経済的な豊かさで価値を測るのがメインストリームだからです。
ディズニーランドみたいにお客さんがたくさん来るところが無いからです。
そしてやっぱり、教育や文化は、人口が少ない場所では選択肢が狭まるからです。
でも今は、昔より不利ではありません。
インターネットが発展したからです。
使えるものは増えたし、打てる策も増えました。
やれることは、あります。
挑戦しない手は、無くないですか?
故郷を「好きだ」と、「ここはいいところだ」と、胸を張ってほしい。
家族や地域を支えてきたあなたにこれからも笑っていてほしい。
私は移り住んだ場所で、そのために働きたいと思っています。
東日本大震災の支援スタッフになってから、書く力や編集する力を活かして、震災のことを伝えたり、そこで生きる人のことを伝えたりする仕事をしてきました。
でもそれだけだと、愛すべき東北は守れないかもしれないから。
私はここで暮らす人たちの、経済的な豊かさにも貢献できるようになりたいと思うようになりました。
経済的に豊かになれば、ここに住んだまま、選択肢は広がります。
できなかったことも、できるようになります。
それをここに暮らす一人ひとりが自分の力で達成できたら、堂々と胸を張って「この街が好きだ」と言えるようになると思うのです。
このブログは、そのための第一歩です。
一緒にここで、生きていきましょう。